世界中の“親”は偉大なり【東南アジアチャリ旅#44】
世界中の“親”は偉大だ。
そんなことを思わせてくれたベトナムでの一コマを紹介する。
今日はホイアンからチュライ国際空港辺りの海まで自転車を走らせた。
お腹を空かせたドラ猫〜♪…いや…私は
「夕食は絶対米!!」と決めていた。
何でかというと、米がナンバーワンに好きな食べ物だから。
肉や魚、野菜や海藻類…
そのどれもは、米の為にあるといっても過言ではない。
私にとって米は命である。
だが、海沿いに並ぶお店で米を提供する店を探すが見つからない。
ベトナム語で「お米ありますか?」とGoogle翻訳して、1軒…2軒…3軒と回るが米は見つからない。
3軒目に至っては、Google翻訳の質問すら見てくれず、手であしらわれた。
4軒目を探していると、自転車に乗ったおねえさんが手招きしてくる。
とりあえず付いていくと、一つの店に案内され、Google翻訳を見せると、店主は頷く。
「(おー!!やっと見つかった。有り難や。有り難や。)」
案内してくれたおねえさんにお礼を言い、テーブルに着く。
海鮮野菜炒めとお前が主役“お米”
ご飯を食べ終えるとお店のおばちゃんがメモ帳を持って私のところへ来る。
おばちゃんがメモに筆記し、私がスマホで翻訳する。
お店の子どもと私が同い年だということがわかった。
そしてお店の人は、自分の子どもと私を照らし合わせ、色々と良くしてくれた。
お米に合う料理を作ってくれたり…
海水浴中、荷物を見張っててくれたり…
海水浴のあとシャワーを貸してくれたり…
翻訳機を介してたくさんコミュニケーションとってくれたり…
「自転車盗まれちゃうから」と朝まで自宅兼店に置いといてくれたり…
テントをお店の前に立てて良いよと言ってくれたり…
ラジバンダリー…。
私としては、他人が自分の子どもと同い年という理由で、他人を自分の子どもと照らし合わせ、良い対応をすることはないだろうな、と想像する。
まだ0から子どもを育ててないから、その気持ちはわからなくて当然ではあるが。
だから尚更、世界中の親に成りきれた人たちは偉大だなと思う。
当たり前のことだが、“親”は“子”がいて初めて“親”になる資格を与えられる。
親になるのは絶対大変だ。
親としての自分たちの視点が不可欠だからだ。
それを子どもに伝える際、自分の子どもといえど、自分とは異なる人格を持つため、伝えたいことをどうすればその子に伝わるのか、状況に応じて変えなければならない。
そして伝えたことがどう作用するのかは、その子の捉え方次第になる。
そういう点でも、0からの子育ては面白そうだし、それ故、難しくて大変なことである。
もしも自分の子どもを自立するまで育てた時、私の子どもと同年齢の他人に対し、私がどういう気持ちを抱くのか楽しみなところだ。
世界中の“親”は偉大なり。
本当は自分の親に敬意を表さねばならぬが…。
そこは自分が親になってからでも遅くはないだろう。